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2012.03.23
バスは次の2番札所「大棚山真福寺」に向かう筈ですが、先達さんの案内で山まで登るのが大変でおまけにこの真福寺は無住なので寺の管理や納経は光明寺が行なっており今日はその光明寺にお参りとなりますとの事。
その真福寺のネットよりの写真と説明をどうぞ。
 
 
 
札所2番 大棚山真福寺(おおだなさんしんぷくじ)
 
秩父札所1番から山道を登って行くと、木立に囲まれた真福寺が見えてきます。ここは大棚という集落であります。秩父札所2番は昔、大棚禅師が岩屋に籠って参禅していると、一人の老婆が禅師の前にひざまずき、過去の罪業を懺悔し、朝夕香華を供え仏道に帰依しました。ある日、老婆は一本の竹の杖を残して忽然と姿を消しました。禅師はこれをあわれみ、供養のために堂を建てたのが始まりだといいます。秩父札所2番の観音堂は、入母屋造り銅葺き屋根、三間四面の素朴なもので、本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の秀作であります。江戸時代に、札所の番号変更が行われた際本来の33番に1番加えて34番になったのだが、その時プラス1がこの真福寺だといいます。ここは、堂守が居らず、納経などは麓の光明寺で行います。 インターネットより
 
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光明寺
入口には阿吽の不動明王がお出迎えです。
 
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帰りに珍しいトイレの神様?・・・東司明王がありました。
トイレを綺麗にしてくれる?そうです。
 
 
3番札所に向かいます。
 
 
 
札所3番 岩本山常泉寺(いわもとさんじょうせんじ)
 
秩父横瀬川にかかる山田橋を渡って左折し、少し歩くと右手にこの寺が見えてきます。秩父札所3番の観音堂は丘の中腹、林の中にあって、静かな村落を見下ろすように東面して建っております。もとの堂宇は、五間四面の大きなものだったが、弘化年間に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築したもので、宝形屋根、三間四面のものが今の観音堂であります。秩父札所3番の本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像です。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫りと、正面梁の鳳凰があるが、カゴ彫りのみごとさに目を見張るばかりで、江戸時代の彫刻の抜群の技術におどろかされます。秩父札所3番は、むかし、ここの住職が重い病気で寝ていたとき夢に現れた観音様からお告げがありました。「境内の水を服用せよ」そのとおりにすると病気がすぐに治ったといいます。インターネットより
 
 
ここは紫陽花寺と言われているそうですが今はその季節ではありません。
母親が子供を抱いているような珍しい形の石があり、子授け石?のようです。
 
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3番を終わって昼食です。・・・もう1時です。
寺は5時で閉まうのでピッチを速めて・・・ランチタイムは短く40分にスタートです。
ニジマスの甘露煮とジャガイモの天婦羅が美味しかったです。
 
 
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午後からは番号順ではなく・・7番札所です。
 
 
 
札所7番 青苔山法長寺(せいたいさんほうちょうじ)
 
秩父札所7番寺右側に「法長禅寺」左側に「不許葷酒入山門」と刻まれている。これは結戒の一つで、葷酒はその強い匂いで他人を苦しめると同時に己の修行の妨げになり、また酒は心を乱すので、清浄な寺内に入ることは許さないとの意味を言う。本尊は、江戸時代の作の十一面観音で、高雅な面立ちである。内陣欄間に、四国八十八ヶ所の第86番志度寺縁起の彫刻がある。竜神に明朱を奪われた藤原不比等が、それを取り戻そうとして讃岐の志度の浦へきたとき、そこに住む海女と契ってしまう。やがて海女は不比等の子房前を生む。不比等への恩愛故に海女は竜神に赴き、明朱を無事取り返したのだが、竜神に追われてしまう。きわまった海女は己の乳房を切り、その下に明朱を隠し、命とひきかえにそれを不比等に伝えたという哀しい縁起話であります。 インターネットより
 
インターネットの通りの話が先達さんからあり・・・不許葷酒入山門は鍾乳石で出来ているそうです。
 
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6番に向かいますが、バスに乗ったら直ぐ降りて・・・
 
 
 
札所6番 向陽山卜雲寺(こうようさんぼくうんじ)
 
秩父札所6番寺の本尊の聖観音は1尺2寸3分(43.3cm)の立像で行基菩薩の作と伝えられている。秩父札所6番の寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、1781年(天明元年)作といわれる紙本着色の荻野堂縁起1巻並びに山姥歯等がある。縁起によれば、行基菩薩が秩父札所6番寺地を巡回したとき、武甲山に3mを超す気性の荒い山姥が棲み、里人に害を与え、はてはこれを食らうという鬼神ぶりで、困り果てているのを聞き、さてはこれを除こうと武甲山頂の蔵王権現にこもり、27日間の清誠をこらした悪魔降伏の祈願をした。この神力呪力によって山姥も悶絶し、平伏した。よって遠国へ立ち去るよう論したところ、山姥は前非を悔いて再び里人を食らわない起請の証として前歯1枚、奥歯2枚を折り取って献じて去ったという。その後、里人が行基に請うて彫ってもらったのが今の本尊で、山姥の歯3枚も当時のまま保存されているという。 インターネットより
 
 
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次回に続きます。